2012年9月30日日曜日

時の洗礼を受けても尚美しい物以外に、如何ほどの価値を与えるかについて考慮していきたいと私は考えている。

時の洗礼を受けても美しいものは私が美しいと思わなくても美しいだろう。
でもそういうのではなく、自分で選んだものに対してしっかりとした価値を与えたい。
そういう事をしないと、失われてしまうんじゃないかなって漠然と思うのです。

何が失われるのか。
失われるというか、得られないものがあるんじゃないか―、みたいな感じかしら。
うまくそこはまだ理解出来てないんだけど。

例えば着る服や履く靴に関して。
もう1ヶ月に何着も服を買うような、そういうのうんざりなんですよね。
さすがにうんざりしてきた。
服飾業界に勤めてたった1年でうんざりしてきた。
服のこと好きだし、素敵な服を見る度ときめくけど、部屋が狭いし収納に限りもあるし何より金に限りがありすぎるので全部を大事にすることも、本当に欲しい物を全部買うことも無理なんですよ。
ありとあらゆる欲望に対して選択を迫られる。
ジーザス。

もう賢明な読者各位はわかっておられると思いますが、今すっごい当たり前の結論をくっそどうでもいい起点から導き出そうとしています。
時々そういうことしちゃうんですよ。結論は至ってシンプルで当たり前で考えるまでも無いことなんだけど、複雑な迷路(というか怠い何か)を通らせることによって何かしら特別な意味が生まれるんじゃないか、みたいな淡い期待(ほぼ無意味)。

でも今回は結論より起点が大事だったんです。
誰もが分かる物事の価値よりも、自分自身が物事の価値を決めるべきなんじゃないか?ってことが。何をどのように選ぶかってことを、決めるっていうかさ。
そういうのって皆様もっと若い頃に無意識に考えてお決めになられるんだと思うんですけど、その頃私ちょっとやりたいこと多すぎてやることも多すぎて忙しくてほとんど何も考えられなかったのよね、オホホって今もあんま変わってないんだけど。

たくさんの服を捨てるにあたり次は大事にするからねって言うのなんか別れた男に、いえなんでもありません。

昨日もなんとなく書いたけどさ、私は自分自身を見つけたり失ったり誰かと分けたりして生きてみるのも悪くないのかもねって思い始めた所なのです。あ、もう齢31なんですけどね。

書き始めと書き終わり、途中で人と話してたというの相まって切れ味変わってつまんなくなっちゃったな、と反省しています。

いいですか、
物語に銃が登場したら血が流れるように人生に大切なものが登場したら、

 全然関係ないですけど曽爾高原行きたい。

休日の朝少し早起き、といっても平日と同じぐらい、するの悪く無い。
カフェ・オレを入れてスコーンを食べる。
疲れないことの大切さたるや。


今度カフェ・オレボウルを買おう。
紅茶茶碗も欲しい。
兼用すればいいじゃない。

そして私は今からトウモロコシを茹でる。

台風の前の日

今日は何もしなかった。
ちょっとだけ部屋を掃除したり要らない服を捨てたぐらい。
素晴らしい気分だ。
昔よく感じていた寂しさみたいなものを久しぶりに感じた。
一人で約束も無くて声も出さないでジッとしているときに感じるアレだよ。


しかしながら寂しさというものの中に身を置かないと感じ取れないことがある。
寂しさはたぶん弊害で、寂しさなんてなくても感じ取れたら最高なんだろうとは思う。
でもそういう風に生きてこなかったからなぁ。
愚かだとは思うんですがどうしようもない、今のところ。


もう秋だなぁ。
あと2ヶ月もしたら枯れたプラタナスの葉を踏んで冬を迎える事ができるんだろうか。
私はいつも誰かと一緒にプラタナスの葉を踏みたいと思っている。
でもそういうことを上手く他人に伝えることが出来ないまま大人になってしまった。
伝えようと努力するんだけど、プラタナスの葉を一緒に踏むことの意味というのは人それぞれだし、それを強要するわけにもいかないし。
あるいはいつかの記憶を私は再現したいだけとか?
いやそういうのとは違うんだけど、好きなんだよあの枯葉の感触が。
うまくいえないんだけど。



とにもかくにも今年の秋はなんかよさそう。
仕事ばっかりしてないで、うつりゆく季節やら変わったり変わらなかったりする人を見てられたらいいなと思う。
そして私も自分というものを見つけて馴染んでいけたらいいなと思う。


2012年9月23日日曜日

you don't know what love is

このあいだ東京に行った時、可愛いインコのブローチを見つけた。
私はインコのモチーフが好きなので、可愛いのがあるとすぐ買っちゃう。
でもその時は時間がなかったので次見に行った時に買おうと思ったけどもう無かった。
可愛かったのになぁ欲しかったなー残念だなーと思ってて、今日ふと寄った店に同じブローチが売っていた。
でもなんか全然欲しくなかった。
いや、きっと欲しかったはずだからと手に取ってしばらく見つめてみたけど全然欲しくなかった。
あんなに欲しかったのに。
一度手に入れ損なったものが再び手元に転がり込んできても、もうあの時の気持ちは無いんだなーって哲学めいたことを思いました。

はーしんど。

秋なので3ヶ月ぐらい休みをとって本を読んだり手紙を書いたりしたい。
そうね、手紙を。



この時期になるとどうしてもチェット・ベイカーが聞きたくなります。
この曲はチェット・ベイカーの作った曲ではないけど、チェット・ベイカーが歌うこの曲が好きです。
私が生まれる40年も前に書かれた詩とメロディー。
美しいですね。

実に秋ですね。

2012年9月3日月曜日

things are so clear and good to be loved

ついさっきまで書こうと思っていたことがあったんだけど、先に洗濯物でも干すかとしている間になんだっけ?となった。
あーまたどんどん失っていくんじゃんかよーと思った。

朝iPodから久しぶりにno starが流れてきて、やはり原点はシーガルだなぁーとか思ってた。
地下のライブハウスで音楽を聞いたりお酒を飲んだり男の子と目だけで微笑みあったりする日々が今の私の、じんわりと退屈な日々を作ったんだと思うと考え深い。
そしてこの先どれぐらい多くのことを失えばいいのかよくわからない。
でも全然悲しくない。

私は服を買うのがすごく好きなんだけど(ちょっとどうかしてるぐらい)、今日も欲しい服があったので袋から出して広げたり触ったりしていたら女の子が近づいてきて「また服買うんですか?もしかして浪費家ですか?」と聞かれたんだけど、そうですねぇとか答えてたら「どうしても欲しい服とかないなぁ。」って。
「今は服とか物にお金使うより、人と会ったり美味しいもの食べたりお花習ったりしたいなぁ」って。
よくわからないんだけど、私ものすごく色んな人と会うし美味しいご飯食べるのも作るのも好きだし、習い事はしてないけど美術館行ったり公園に行ったり山に行ったり街を歩いたりするの好きだし写真のことずっと考えたりしてるんだけど、それとはまた違うことなのかしら?
と思ったけど、素敵なことですねぇって答えた。

どうしても欲しいものなんて、もちろん私にも無い。
ただがっかりしたくないだけって感じなんだけど、まぁいいや。

だんだん外気温が下がってくると意識がクリアになってくる。
なんというか覚悟みたいなものを感じる。
冬の寒さの中に一人で居ることに対して、しっかりしようという決意みたいなものを感じる。
暖かい服を着て手袋をしてブーツを履いて。
金属のカメラはすごく冷たくなるんだよなー。